少年は餞を贈る
今日は天気がいい。
ラピュタには防衛機能である竜の巣に見られるように、ある程度気象を操る術があるが、穏やかな天候であれば人為的な操作は解除される。
地上からは天の一点の染みに見えるだろう高度を保ち、目くらましの雲の薄衣を取り払った光景は絶景の一言に尽きる。
こんな日は縁まで足を伸ばして、城とともに風をきる心地を全身で味わいたいのだが、残念なことに用事があった。滅多にない快晴は惜しいが、父から継いだ役目はその内容はどうあれ、軽々しく放り出していいようなものではない。
マナは名残惜しさを振り切って、縁へと続く道に背を向けた。それはラピュタの中心地へと向かうことを示している。
目的地は、ラピュタの重要エリアのひとつ貯水域だ。
少年の域を出ないマナが向かうには不似合いな場所だが、肩から下げた膨らんだ鞄を背中で弾ませる足取りは軽く、躊躇いはない。
既に通い慣れた道のりを初めて辿った時は父と一緒だった。十歳を迎えたマナを連れ出した言葉は、不可思議さと誘惑に満ちて、道行を輝かせた。
―― マナ。人魚姫に会いに行こう。
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満々と水を湛える貯水域は、緑を配置することに腐心するラピュタの中にあって、二番か三番くらいには植物の少ない場所だ。ラピュタの唯一の水源として、汚染を避けるための措置がとられ、馴染みの薄い無機質さが空間を占めている。
しかし、それも表だけの話だ。巡回のロボットに認証を受け、マナは更に奥地へと進む。表にあるのは濾過と浄水を経た生活用水だ。水の心配はないと見せるためのもので、本当の水源は別にある。
一転して緑の増えた小道を進む。両側に敷き詰められた芝生と遠くに茂る木々。庭師のロボットの姿も見られるようになり、鼻腔をくすぐる匂いさえなければ、ラピュタに数多く点在する庭園と変わりない。
暫く行くと嗅ぎ慣れない香りが漂うようになった。かつて異臭として捉え、鼻に皺を寄せて苦悶したマナに、父はこれは潮の香りだと教えた。
香りが強くなる頃を見計らって、道を外れて芝生に踏み入る。足元を兎か何かが駆け抜けていく。
木立に入って首を巡らすと右手のほうへ更に行ったところに、木陰の切れた場所が見えた。
ぽかりと空へと開いた空間のちょうど中程、芝生に隠されるように口を開けた穴があった。水に満たされた、池というには小さすぎ、水溜りと呼ぶには深い。そこが潮の香りの発生源であり、代々役目を継ぐマナたちが海の入り口と呼ぶ、真の水源だった。
手早く服を脱いで、下穿きだけの姿になると、教えられた通りに身体を動かす。作法などではなく、ただの準備運動だ。
マナは泳げるわけではない。他のラピュタ人に比べれば、水への親和性は高いが泳ぎを練習できるほどの水量を確保するのは難題だ。水源の縁には埋め込まれた金具があり、そこから伸びるロープが水の下へと続いており、これを辿って水底まで行くのだ。
このロープは、マナが役目を継いだ日に父の手で新しくされたばかりだった。父から息子へ受け継がれる度に新しくされるのが習わしなのだという。
深呼吸して息を整え、水に沈む。ここの水は塩辛い。海の水だから、というがなぜそうなのかはわからなかった。
あまり長くは潜っていられない。それでも底につくまでは楽に息が持つようになったし、ロープに捕まって流されないようにしながら待つこともできるようになった。
今日は何度潜ることになるだろう。
入り口からの光が届く範囲は狭く、底へと続くロープの周囲がなんとか見える程度だ。
ゆらりと現れては泳ぎさっていく魚たち。呼吸もままならないマナとは違う。ここは彼らの世界で、混ざりこんだ異物はこちらのほうだった。
底に辿りついてぐるりと周りを巡らす。目当てのものは見えなかった。
静かだ。
ここはいつも時が止まっているようだ。閉ざされた空間だが、水の流れはある。音の無さの分も担うように、目に映る世界はめまぐるしさを感じさせない速度で移り変わっていく。
ラピュタの雲を切る姿に思う衝動的なほどの感動とは違う、ゆるりと足元から心臓を包む美しさに、いつの間にかうっとりと見入っていた。
息苦しくなる度に地上へ顔をだし、息を整えての潜水を繰り返す。
三度目の潜水でも、もう息が続かないと上を仰いだところで、視界に煌めく存在を捕らえた。幾度も過ぎっていった魚影とは異なる大きさに、濃い影の満ちる水底に目立つ揺れる白い影。こちらへと向かってきているのがわかったが、息の苦しさはどうしようもない。慌てて水面に顔を出し、数度の呼吸ではへたれそうな身体を叱咤して再度潜った。
それまでの潜水とは明らかに空気が違った。水の中をぱちりぱちりと小さな火花が散るようなざわめきがする。
まるで月が落ちてきたようだった。
わずかな光を捕らえてさんさんと輝く金色の髪。肌は白く滑らかで、円い瞳は青く輝いている。人形のように整った美しい顔立ちだ。
揺れる白い衣装の裾から、ゆらりと動いたのは透き通る尾びれを持つ魚の尾だ。
人の半身に、魚の半身。
にこりと美しい笑みを浮かべる彼女がここの主であり、ラピュタに海を呼ぶ秘中の秘たる人魚姫だった。
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彼女は最初からラピュタにいたわけではない。
天空に城を浮かべたての頃は、しばしば高度を下げて水や食糧を補給していたらしい。ラピュタ内での生産と消費が釣り合うようになっても、水の補給だけは続けていた。循環と濾過、浄水を繰り返してもまかないきれなかったのだ。
そうして行われた海水と海産物の回収に、彼女は巻き込まれた。
それは、不運なる偶然であり、幸運な必然だった。
ラピュタの王族が特別に力を秘めた飛行石を持つように、彼女の持つ石はその手の中に海を呼ぶことができた。首からかけられた虹色の光彩を持つ丸い石は、海応石と呼ばれた。
時の王は、天空の支配者のもとに、海の支配者が挨拶にきたとこれを喜んだ。
以来、存在を明かされることのないまま人魚は天空の城に海を呼び続けている。
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マナが新しい服を出すと、彼女は着ていた衣装をあっさり脱ぎ捨てた。裸の女性の裸身を目の当たりにすることになるので、何度見ても――見たくて見ているわけではないが――別に嫌でもないのだが――慣れない。丸い乳房に続く薄い腹になだらかな腰つき、その先に続く尾を揺らめかせて、久々の解放感を味わうように泳ぎ回るので、見ないふりも長く続かないのだ。
布を纏うなど無用で、泳ぐのに邪魔だと思っているらしい彼女に妥協してもらうのは大変だっただろう。しばらくすれば大人しく袖を通してくれる今とは違い、まず着ることから丁寧に説明しなければならなかったはずだ。
話すこともできないのにどうやって説明したのか? 不思議だが、先人の努力のおかげで始終目のやり場に困らずにすむと思えば、感謝を捧げるばかりだ。
一旦、地上に戻ってから再び潜ってくる頃には新しい衣装の裾をつまんだり、ひっぱったりして様子を見ているようだった。
大丈夫そう? と首を傾げると満面の笑みが返る。次いで、伸ばされた両手を掴むと悪戯っぽく口の端が上げられ、ぐんと引っぱられる。
息継ぎのためにマナが上に戻らなければならないことは知っているから、あまりにも離れはせず、ぐるりと回って戻ってくるいつものコースだ。
泳ぎを教えてくれているつもりなのかもしれない。だが、次元が違いすぎてマナは引っ張られるままで終わるのが常だった。
息継ぎから戻ってきた時に彼女がいなくなってしまうまで、そうして付き合うことがマナの引き継いだ役目の全てだった。
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始まりは監視役だったのだろう。
いつからかそれは、守人と呼ばれるようになり、その性質を変えた。
貯水域の安全を手配し、貯水域の安全を手配し、名を名乗ることもない女に捧げるように名を与えた。
彼女の名前は?、と最初の日に尋ねたマナに、父は好きに呼べばいいと言った。
代々の守人が、それぞれの想いをこめて名を贈ってきた。けれど、そのどれもが呼びかけることも、答えられることもないのだからと。
切り捨てるような痛みの篭った声に、父は彼女を何と呼んでいたのか、聞きそびれてしまった。
彼女にひっそり呼び名をつけた時、胸をときめかせた想いにマナは聞かなかったことを後悔するようになる。
名を知っていれば、父が彼女をどう思っているのか想像することもできただろうから。
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人魚に会いに行った日はひどく疲れる。
夢も見ないくらいぐっすり眠って、起きたら全身ひどい筋肉痛で身動きできない時もあった。その時はひどく驚いてこのまま二度と起き上がれないのではないかと思って泣いてしまった。母に呼ばれた父が、同じ痛みを知る者の笑みを浮かべて頭を撫ぜてくれて、ようやく安堵した。
同年代の子どもたちの中でも、マナは活発なほうで、自分の身体が運動不足のせいで筋肉痛に陥ったことが信じられなかった。使う筋肉が違うんだろうと諭され、人魚とは生きる世界が歴然と違うのだと理解した。それは、頭を雷に打たれたような衝撃だった。
彼女のいる世界はあんなに美しいのに。
天の青を仰ぎ、地の緑を見晴るかす、ラピュタのパノラマに比肩するほどに。
それでも、違うのだと、ただ垣間見を許されたにすぎないのだと本能的に悟り、世界から弾かれたような哀しさを覚えた。それは小さな闇となって彼の胸に落ちた。
母は人魚の話を好まなかった。父とマナが貯水域にまつわる話をすることすら忌むほどで、度々口を挟まれ、違う話題を持ち出されるうちに報告すらも決まりきったものになった。
何か言われるだろうかと不安だったが、父は淡々とそうかと返してくるばかりで、無事終えてきました、という言葉すらなくてよいもののような気がした。役目を譲り渡したことで、父からは人魚に対する興味は消えてしまったのかもしれない。母が嫌悪も露わに口にするようなことは思っていないと信じたかったが、家族の中で自分一人が彼女を美しいと思っているのかもしれないと疎外感を覚え、恐怖した。
父と母に疎まれるなど考えたくもなかった。だが、――に惹かれているなど知れたら、怒られるくらいではすまない気がした。
その畏れは言葉にできない闇となってマナの中に巣食った。
そうして、足元が危うくなるような心地として、不意をついてはマナを襲うのだった。
マナがその不安を友人に話したのは、限界が訪れる前に無意識のうちに力を抜こうとしたからかもしれない。
貯水域に棲まう人魚のことは話すことができない。だから、地上の人とラピュタ人との違い、そして地上の人を嫌うラピュタの人のこととして。ラピュタ人以外を見下す風潮は好まれてはいなかったが、消えることのない染みのように囁かれていたから、不思議に思われることはなかった。
「僕らと彼らとは何か違うんだろうか」
「どうだろう。見た目は変わらなそうだ」
「頭の出来は違いそうだな!」
首を傾げて、とりあえずの所見を口にしたのはレーゼル。首のところで結んだ髪を肩口から胸へ垂らしていて、女顔をより増している。残念ながら短髪は似合わないんだと肩すくめてよく嘆いている。友人の中でも考えの深い彼は答えた後も何がしか考えているようだった。
明快な答えを口にして、すぐに違う話題を持ち出しそうなのはニイル。レーゼルとは対象的な短髪で、落ち着きがないと拳を受けることがしばしばあった。
静と動に別れた二人の間にあって、マナはちょうど中庸の子どもだった。レーゼルとニイルを足して二で割ったらマナになるというのが、三人を知る人の笑い話で、足して割られても余りでニイルが飛び出してくるに違いないというのがその落ちだった。
「頭の出来自体は突出した人以外は変わらないだろう。僕らの場合、出来ることの違いは知っているかどうかだろうから。
環境の違いのほうが大きそうだけど、どうかな。大地を宙に浮かべただけで、暮らしぶりはさほど変わらないそうだから」
「つまり、変わらないってことか?」
「身体能力はそうなんじゃないか? 同じ人間なんだから」
「でも、僕らは彼らに怖れられているよね? 生きている場所がほんのちょっと違うだけなのに」
「誰もがここで暮らせるならそうではないかもしれないけどね。
むしろ、排他的なのはこちらのほうだから、向こうにとっては得体の知れない力を操る僕らは同じ姿をしていても、何か別のものに見えるんだろう」
「いっそ、どーんと姿が違えばいいのかもな。俺は翼とか欲しいぞ」
伸ばした手が翼になればいい、とばかりに突き出された両手がレーゼルとニイルの顔を直撃した。おうしまったとばかりに瞬いたニイルをレーゼルが低い声で呼ぶ。
「そんなに飛びたいなら、蹴り落としてあげますよ!」
逃げ出したニイルと追いかけていくレーゼルを、止める隙をマナは逸した。
姿が違えばいいというニイルの言葉に気を取られていたのだ。
遅れてきた痛みに頬を抑え、考える。
彼女は姿からして違う。だから、マナと違うことができるのは当然なのだ。しかも、人知れずその力でラピュタを支えている。感謝しこそすれ、やはり粗雑な扱いをするのは違う気がする。
得体が知れないのが嫌悪の理由ならもっとわかりあえればいいのだろうか?
しばらくして、戻ってきたレーゼルとニイルは翼を作って空を飛ぶ計画をしていた。てっきりニイルがやるものと木のてっぺんから飛んだらどうかなと提案していたら、今度身体を計らせてくださいねとレーゼルに言われてぶっとんだ。ニイルは重そうだからだめで、レーゼルは頑健さに乏しいというのが理由だった。
数日後、地面に大穴をあけることになったマナは海への思慕をいっそう深くした。
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友だちと翼を作ったんだよ。
でも、飛ぶことはできなかった。泳ぐのもうまくできないし、やっぱり僕たちの手足は歩くためにあるんだろうね。
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貯水域に行くのはそう頻繁なことではなかった。三ヶ月から半年に一度程度のことで、そうでなければ、友人たちに訝しがられていただろう。
不定期な日程を決めているのは父で、そこに法則があるようには思えなかった。
何を勘付かれることもなく、両親との間にできた小さな溝を埋めることもないまま――何しろ理解を深めようにも人魚とは話ができず、母とは話題にすることすらできなかったのだ――、マナは十五になろうとしていた。
「結婚?」
「そうだ。そろそろ考えてもいい頃だろう」
そろそろというが、友人との間ですら上がったことのない話題だった。
「まだそんなことは考えられないよ」
それに、マナの妻になる相手は人魚の秘密を知ることになる。教えてもよいと思えるような相手はなおさら心当たりがなかった。
「では、考えるようにしなさい。我々の時は待ってはくれないのだから」
図星をつかれた気がした。
人魚は美しいままだ。何ら変わることなく、無邪気に素肌を晒し、微笑みを見せる。
言葉を交わすことはなくとも、通じ合うものはあると錯覚させるほどに、海で過ごす時間は濃密だった。
永遠が許されるなど、都合のいい勘違いをしてしまいそうになるほどに。
「結婚!? 早すぎじゃないか?」
「話が出てきてもおかしくはないですけどね」
「もう、レーゼルでいいんじゃないかな……」
ニイルは男臭く育ち、レーゼルは女顔から脱却できていない。レーゼルならいけるかもしれない、と思ってしまうくらいにはマナは疲れていた。
父からは宣言を受けただけだったが、母はどこそこの娘は年頃だとか、あそこの娘は見持ちがよくて働きものだとか、とにかくうるさい。マナに興味がないようだと見て取ると、何かを疑うように嫌な目で頭からつま先までじろじろと見られるのだ。
と、レーゼルも嫌そうに顔をしかめた。
「疑惑を持たれるのはマナ一人にとどめておいて下さいよ」
「疑惑? なにそれ」
「マナは女っけないからなー」
楽しそうに口を挟んできたニイルを見る。
「は?」
「女の子に興味ないのかなー、と」
「は、ぁ!?」
いやそれは単に気になる子がいなかっただけで。思いもよらぬ疑惑にあたふたと言葉を重ねるが、
「かわいいって噂のユナを見にいった時も、そう? とか言ってたし」
「悩殺間違いなし! な身体つきのフアナに擦り寄られても気に留めもしてませんでしたしねぇ」
知らぬ間に積み重ねられた事実に打ち消されてしまった。
(しょうがないだろ、見慣れちゃってるんだよ! 言えないけど!!)
気づかぬうちに美形と女体への耐性がついていたことをマナは自覚した。
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二人と別れた後、役目の日ではなかったが貯水域に足を向けた。
少しばかり不安もあったが、いつも通りに海の入り口までくることができた。
水底まで潜り、揺られながら彼女を待つ。もしかしたら現れないかもしれないと泡のように不安が浮かぶ。
いずれ役目を終える日はくる。その時が来れば、もう行かなくてもいいとわかると聞いていた。
それは、彼女が現れなくなった時なのだろうと漠然と考えていた。
手を引いてもらわなければ、ロープから離れることはできない。どこかにいる彼女をマナが探しにいることはできないのだ。
やがて、姿を現した人魚はただゆるりと微笑した。
拭くものも着替えも持ってきていなかったので、乾くまで芝生に転がっていることにした。日差しも心地よく、いつの間にか眠りに落ちていた。
ふと気づくと水面から伸びた手が、マナの手を掴んでいた。
驚いて海の入り口を覗きこむとすぐそこまで人魚があがってきていた。
ほんの僅かな水の層を境にして見つめあう。
心の中で語りかけていたマナをいつも見つめていた青い瞳。ずっと透き通って見えるのは水底とは明るさが違うからなのか。
ふ、と彼女の唇が小さく開いた。引き寄せられるようにそこに唇を重ねる。
冷たいキスだった。赤味の薄いそこに、温かさを移すように、触れては離れてを繰り返す。
視線が合う。細められた目は幸せそうに見えた。
「……リュシータ」
触れる距離を保ったまま名を呼ぶ。ずっと心に秘めてきたそれを。ぴくりと震えが伝わった。
両側で水音がして、伸ばされた腕が背中に回るのを感じる。唇を重ねたままマナは目を、閉じた。
「……いいよ」
ぐい、と引き込まれたのと、引っぱり上げられたのは、あまり時間差がなかった。
顔が水に触れたと思った時にはもう彼女からは引き離されていた。
「この、化物がっ!」
金切り声をあげる母の手が肩に食い込んでいた。身を乗り出して水面を見ると、水の中、人魚はこちらを見上げたまま、ゆっくりと沈んでいくところだった。虚ろな微笑みに目を細め、口角を緩めたまま。
頭を抱きしめられ、良かった良かったと無事を確かめる母の手の熱さを感じながら、もう彼女と会うことはないのだろうと思った。
幻のように人魚は水底の闇に消えていった。
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「僕が彼女と行ってもいいと思っていた?」
帰りが遅いマナを心配して、母はもしやと思って貯水域まで来たのだという。あんな化物に渡さない、絶対に許さないと譫言のように繰り返す母に引きずられるようにして帰宅したマナを、父は慌てた風もなく迎えた。
興奮の収まらない母をなんとか寝かせ、居間で向い合って父と話をした。
「そうなった守人もいた。踏みとどまった者も。
だが、時が経てば彼女はまた誰かを呼ぶ。誰が行こうと、……行くまいと変わらなかった。自分なら変えられると思うのは傲りだろう」
「そんなこと関係なしに、僕は行ってもいいと思った。あそこも、とても美しいところだから」
そして、と続けようとしてやめる。
あそこで生きていけないマナにそれを言う資格はない気がしたのだ。
けれど、息子の飲み込んだ言葉に父はとうに思い至っていた。
「彼女の孤独は彼女が作りだしているものだ。その気になれば、彼女は同族をも呼び寄せることができるはずなんだ。海応石は海にある全てを呼ぶことができるのだから」
「同族……」
「そう。死ぬことなく、彼女とずっといてくれる者をね。
それをしないのは既に存在しないからか、同族が増えるのが都合が悪いからだろう」
「どういうこと?」
「罪人だ、ということだよ。
彼女にとって、ラピュタに囚われることは何らかの贖罪なのかもしれない。人魚の牢獄にここほど相応しい場所はないだろうからね」
海水に人魚が紛れ込んでいたことは偶然とされた。
「推測にすぎないけれどね。
けれど、ここであっても彼女は罪人だ。彼女が引きずり込んだのは一人や二人ではないのだから」
「僕らは、……牢番みたいなものだったの?」
「監視者であり、守人であり、牢番でもある。ラピュタのために人魚を管理し、守り、他に害が行く事のないよう閉じ込める。
己に敵意や悪意を持つ相手の前には現れることはないから、お前の前に姿を現すことはもうないだろう」
「もう会えない気はしていたよ。僕はもうあそこに行かなければいい?」
「そうだな、明日からは私の仕事を手伝ってもらおうか。いつかお前の子どもが呼ばれた時のために」
「わかった」
母はマナを救ったと思っているが人魚と一緒に沈んだものはあったのだろう。
美しいあの水底へ、彼女が連れて行ってくれたものが。
少年の日々が終わったことを、マナは人魚への訣別とともに知った。
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いつか滅びの言葉が唱えられる日が来ても、彼女は水底で微笑んでいるだろう。
無邪気に、何も知ることなく。
そうであってほしいと、夢想する。
それが彼女に思慕をいだいた少年からの、せめてもの餞だった。