世界ではなかった国
『王宮の中心に行ってはならない』
いつから言われていた事なのか、もう判らない程に何度も言われてきた言葉だ。
乳母から言われ、教育係から言われ、母にも何度も諭された。
そのしきたりの中心にあるのは父のはずである。しかし私は、この十七の歳になるまで、父からそれを言われた事はない。
私が小さかった頃、「何故お父様は、私にその事を言わないの?」と乳母に疑問をぶつけてみた事がある。彼女の答えは簡単なものだった。
「あなたのお父上は王なのですから。王女様の教育は、我々に任されているのです」
答えになっているようで全く答えになっていない。けれどもう一度聞いたところで、同じ言葉を繰り返される事だけはよく分かっていたから、私は分かった風に、一度、うん、と答えたのだった。聞き分けのない子供だと思われるのは嫌だったのだ。
私は自由に育てられた――と教えられている。
代々この王宮で育てられた王家の人間は、教育関係全般から礼儀作法云々、とにかく全てを『ラピュタ王族の名に恥じないように』と育てられるのだそうだ。確かに私はそこまでうるさく育てられた覚えはない。それが何故かは知らない。私がお父様の子供で当時末っ子だったからかもしれない。三年前、下に一人妹が出来たから、もう私は末っ子ではないが、私は間違いなくわがままな末っ子の気質をしている。
教育にそこまで厳しくなく育てられた私は、しかし、『きっちりとラピュタ王族として』育てられたお母様や叔母様方、お姉様達よりも、自分の方が賢くなってしまった事を知っていた。だから、その私に対する教育方法は間違っていなかったと言えるのだろう。
何故私がそのように方針を変えて育てられたのか――それは知らない。
とにかく、私はその教育方針のおかげで王族としてはとても自由だった。そのせいか、とある日、大変な事を知ってしまったのだ。
その日、ラピュタの首都の外れにある、小さな本屋を私は訪ねていた。
私は本が好きなのだ。王宮にある図書館はとても大きくて自然の事から歴史や文明の事、それから物語もたくさんあるけれど、ふと気付いた事があった。
――この国の外はどうなっているのだろう。
国の外、その先も空がずっと繋がっている事は勿論知っているけれど、その先や、この下や、上は、どうなっているのだろう。この国はどこをどのように動いているのだろう。その『外』の事を、私は何も知らなかった。
それを教育係の者に聞いてみた事もあるけれど、『おかしな事に興味を持つ王女』として、怪訝な目を向けられただけだった。
私はそれから、ちょくちょく王宮の外へと出て書店を訪ねて歩いた。外の事を知りたかったのだ。
街の中であればある程度は自由に出歩いても構わないという方針だったから、私は確かに自由に育てられたのだと、その点は感謝している。
けれども結局はどの書店も王宮の図書館と一緒だった。むしろ本の量だけを言うならば王宮の図書館の方が圧倒的に勝っていて、その広さに比べればまるで蟻のように小さい書店など、すぐに隅々まで調べ終わってしまった。
国の外にはきっと空のほかに何もないから――だから誰も興味を持たないのだろう。確かに、白と青の色彩しか持たない空に比べたら、国の中の方がよほど楽しくて、刺激と興奮に溢れている。
それでも何故だか私の外に対する興味は尽きなかった。国の外に空だけがあるのだとしたら、その空がどこまで続いているのかだけでも知りたい。答えが得られなくても、せめてそれに関して考察した人の考えが知りたかった。
その時に知ったのだ。街はずれに、少し変わった書店がある。人があまり好まないような妙な本ばかり集めているさびれた本屋があるのだ、と。
その存在を知った時、私はすぐにその場所を調べ、そして震えた。そこはならず者がたむろっていたり、浮浪者が歩いていたりするようなとてもひどいところだと聞いていて、私はそんなところには行きたくはなかった。
けれど結局、その日、私はその本屋にいた。
行くのを一度はやめたのに、何故だか、私はそこにいた。見えない人間というものがいるなら、私をここまで連れてきたのはそいつだ。だから私のせいではない。そんな風に私は誰かに――教育係や、母や、叔母様方や、それから父に――言い訳するようなつもりで思った。
その界隈は私の想像したほどひどいところではなかった。
行き交っている人は体が大きいだけで目つきが悪い訳でもないし、悪い相談事なんてひとつもしていないように笑っているし、道にうずくまってお金を乞う人なんていなかった。
その雰囲気に背中を押されて、私はその薄暗い書店の扉を開けた。中があまりにも暗いのでやっていないのかと思ったが、とりあえず営業はしているようだった。
扉を開けると小さな鈴の音が鳴って、その音はその店内の薄暗さに反して可憐だった。
薄暗い店内に目を凝らしてみる。全体的に埃っぽく、なんだか息苦しい。
そこらじゅうに得体のしれないものがある。本ではない。
本屋ではないじゃないか。私は騙されたのだろうかと不安になる。
茶色い木を真似たような貴金属で出来た棚があって、そこに分厚くて四角いものがたくさん縦に挟まっている。そのひとつひとつを恐る恐る手に掴んでみると、ずっしりと重みがあり、私の掌に沈んだ。不思議とそれらは私の手に馴染んだ。
それは四角いひとつのかたまりではなくて、薄っぺらいものが何重にも重なっていることが分かった。これは何だ、と思うと、どうやらそれは開けるものなのだと分かった。横の側面でその薄いものが綴じられていて、ぱらぱらと捲れるようになっている。
おそるおそる開いてみて、私は、あっ、と声を上げそうになった。慄きに、指が震えてしまう。
なんということだろう。この薄いひらひらしたものは、紙であったのだ。
「嘘でしょう……。何故、こんなに大量の紙が……」
紙は木からつくられる。木は少ないから、とても貴重なものだ。私だって王宮に献上されるものでしか、紙はほとんど見たことがない。私は信じられない思いで、そこにあるすべてのその四角いものを開いていった。紙、紙、紙。全てが紙で構成されている。信じられない。どういう事なのだろう。
そしてその全てに、何か記号の連なりが刷ってあった。これは何なのだろう、誰かがつくった暗号の為の象形文字だろうか。――でも、何の為に解明できない文字をつくってまで貴重な紙に記載する必要があるのだろう?
私は不思議な思いで、それらを開く作業に没頭した。
「――驚いた?」
急に背後から声をかけられて、私は思わずその四角いものを取り落としそうになった。
「あ……」
いつの間にいたのか、私の横に女の人が立っていた。
「私の祖父の趣味だったんだけれど。先日亡くなってしまって」
「趣味……?」
そう、と女の人は頷いた。
「信じられないでしょうけど、これ、本なんですって」
「本?これが?」
まさか、と私は呟く。とてもじゃないが、紙で構成された本だなんて高価過ぎる。それにこれだけの紙をつくれるほどの木をどこで育てているというのだろうか。いや、育てるのは可能だろうが、どこで伐採しているというのか。木を何かに使用するときには厳重な審査を経て大金を払って許可を得なければならない。そこまでして紙をつくることに何の意味があるというのか。
その疑問が伝わったのか、女の人が笑った。
「そんなもの、絶対につくれないわよね、って祖父に聞いたら、これは、昔、人が外から持ってきたものだ、と言っていたのよ」
「外、から?」
そう、と呟きながら女の人が椅子に座る。どうぞ、と横の椅子をすすめられるが、私は首を振って辞退した。
「ある日ね、うちの祖父が"淵"の方を散歩してたんですって。若い頃はまだあのあたりへの規制が少なかったから。そうしたら、突然、大きな船が降ってきたんですって」
「船が降ってきた……?」
なんだそれは、と私は思う。おとぎ話の世界のようだ。
女の人は記憶を手繰り寄せるようにしながら話してくれた。
「その船は、たくさんのものを積んでいて、ここにある本は、全部その船が積んでいたものだ、と祖父は言っていたの」
「どういう事でしょうか」
私は首をかしげて問う。女の人の言う意味が、よく分からなかった。
「船がふってきて、それが紙で出来た本を積んでいたって。よく意味が分からないのですけれども」
そうよね、と女の人は苦笑気味に頷く。
「私の祖父はこんな風に言っていたわ。その人は、下からきたって」
「下?」
「私もよく分からないの。祖父……いえ、どの人も、その人とは言葉が通じなかったらしいから。でも、身振り手振りでその人が語るには、どうも、下からやってきた、という事らしいわ」
「下って、この国の下の部分っていう事でしょうか?」
この国には大きな地下都市がある。そこからやってきたという意味だろうか。
「分からないわ。分かるのは、結局その人は船を直して、空の中へ飛んでいってしまったということ」
「空の中へ?!何故……」
「祖父が語るには、きっと、空のむこうには、他になにか、人が住んでいるところがあるのではないか、ということ」
意味が分からない、とっさにそう言おうとして、しかし私は思いとどまった。
この国の他に、人が住んでいるところがある。この空のどこかに。
どうして考えた事がなかったのだろうか。その可能性に思い当たってみると、今までそれを疑ってみなかった事こそが不思議だった。
書店の女の人は、私が考え込んでしまった事を気にせずにまた続きを語る。彼女もまた、おじいさんの事でも思い出しているのかもしれない。
女の人の話を黙って聞いていた私は、顔を上げた。
「じゃあ……じゃあ、その人は、その船で、自分の住むところへ戻ったということ……なのでしょうか」
「……信じられないけれど、そうだと思うわ」
女の人は頷く。
「ここにある『本』は、その船に積んであったもの。ここの他に人が住んでいるところがあるだなんて驚きだけれど、そう考えれば紙の本をたくさんつくっている事もあり得ると私も祖父も思ったの。その国では、紙をたくさんつくる事が出来るのかもしれない」
そうか、と思って、私は手元の本に目を落とす。
しばらく黙って、今聞いた驚きの数々についてゆっくりと考えてみる。すると、ふつふつと、この手の中にある『本』の秘密に気が付いてしまった。
つまり、この本が、この国以外のところでつくられたというのならば、ここに書いてあるのは、『文字』に他ならない。
文明が他にあるという事だ。私たちが使っているほかに、文字がある。いや、もしかしたら文字だけではないかも、文法だって、発音だって違うかもしれない。
――けれど、もし……。
「もし、この文字を読み下す事が出来れば、どこに、この国の他に人の住むところがあるのか、知ることができるかもしれない……という事、ですか」
女の人は肩をすくめた。少し寂しげな表情になる。
「祖父はそんな風に言って、その文字の解読に生涯をささげたけれど、ほんの少ししか読めなかったみたい」
私は息を飲む。
「それ、どこにあるのですか?」
「え?」
「あなたのおじいさんが解読したその『ほんの少し』は、残してあるのですか?」
「あ、ええ……そこに……」
女の人は、古びた小さな棚の中を指差した。そこに、確かに文字が残された形跡がある。私はそれに飛びついた。一体、生涯をかけて、このおじいさんは、どの文章を解読したというのだろう。
私は夢中でそれを覗きこみ、そして、そこにある文字に、立ち尽くしてしまった。
『驚きべきは、国が、空を飛んでいること』
「え……?」
どういう意味だろう。国が空を飛んでいることが、驚くべきこと。
意味が分からない。このおじいさんは誤って訳してしまったのだろうか。
分からない。分からない。国が空を飛んでいなかったら、一体、他にどういう状態があるのだろう。
誤りなような気もする。けれど、この一文がさしている事が、何か重要なことのような気がして、私はふと、地面を見た。
「そうだわ……」
私は、空を飛べない。私だけじゃない、人間すべてが、家が、柱が、王宮が、空を飛べない。空を飛べるのは、鳥と、国だけ。
空を飛ぶことができるのが国だけど、よく考えたら当たり前の事ではないのかもしれない。けれど、空を飛んでいない国?そんなものは、想像がつかない――……。
「……あの」
気が付くと、声が出ていた。
「私、行かなくてはならないところが出来てしまったの。見せてくれて、ありがとうございました」
「あ、いえ」
女の人は急にそんな事を言って扉へと向かう私に驚いたように目をぱちぱちと瞬かせた。私は女の人の顔を見る。
「もしよかったら、また来てもいいですか?何度も来てしまうかもしれないけれど……」
「ああ、もちろん。そうしてくれると嬉しいわ」
女の人は嬉しそうにうなずく。
「誰も来たがらないの。こんな変な店。でも、私は、なんとなく祖父が追い求めていたものがここにいたらわかるような気がして、ここから離れられないの」
「離れない方がいいと思います」
私は真剣に言った。
「おじいさんは、何かすごい事を、この国にいるだけでは考えもしなかったような事を懸命に考えていたのだと思います。そうだとすると、おじいさんの軌跡を、消してはならないと思います」
女の人は、私をじっと見つめる。私の言った事を、理解しているようにも、ただ聞き流しているようにも見えた。
私は失礼します、と頭を下げて店を出た。
来る時は恐る恐る来た道を、今度はずんずんと進んでいった。
そこに地面がある事を意識するように、足を一歩一歩地面につけて、王宮までの道のりを急いだ。
急げ、急げ、急げ。
私は知りたい。
空のむこうに、何があるのか、を。
*
王宮の中心には行ってはならない。
骨や肉の中にしみこませるように、まるで私を規則のスープに放り込んで煮込むみたいに、言われ続けてきた言葉だった。
私が世界だと信じてきた国は一個の国に過ぎず、世界を構成する小さな一部分に過ぎなかったのかもしれない。
この国は世界ではなく、世界がこの国を含んでいるだけなのだとしたら。
――だとしたら、この国は他の事を知るべきのようにも思う。せめて、他の世界の可能性だけでも知らなければ。外の世界を知らなければ、お母様や叔母様方のようになってしまう。
――今、私は、父をはじめとする全ての王宮の人間の目を盗んで、立ち入りを禁じられた王宮の中心へと行こうとしている。
父が、――代々の王が隠そうとしているものが、もしかしたら何かを知る手がかりになるのではないかと思ったのだ。
それを見たら、私の何かが変わってしまうかもしれない。
そう思ったというのに、私はあの本屋をおとずれた時のように、見えない人間に連れられるように、一歩、ひっそりと足を踏み出した。
国が空を飛ぶ。
それが驚くべきことなのかどうかを、私は、知りたい。
空の向こうを、私は、知りたいのだ。
fin.